男はすっかり散ってしまった桜の樹のある庭をぼんやりと眺めていた。毎年今の時期が花の盛りだが、今年は季節に似合わない嵐が吹き荒れたおかげでみな駄目になってしまったのだった。地面に落ちた花弁たちは水をよく吸った土と混ざって潰れていた。さらに男には不幸が重なった。その嵐の日に、人間がその樹の上に落ちてきたために枝の幾つかが折れた。樹が枯れぬよう手当てもしなくてはならなかった。 人間、男か女か区別のつかない容姿をしていた彼は自身のことを天使だと言ったが、男はちらともそれを信用しなかった。男の思う天の使いとは、人間の前に姿を現さず、しかし困窮する者に救いを与えるもので、また不注意から人間に損害を与えたりするような存在ではない。彼は男の思うそれとはあまりにもかけ離れていた。背に翼を持たず、光でできた輪もなかった。いっそ彼が桜の精あたりであったならまだ風情があったものだが、と思った。家のことも手伝うし行くところがないから置いてくれと天使は言った。自分ひとりでも家の雑事に特段不便はしていなかったが、追い出されたなどと他の家に泣きつかれても困ると考えたので、そのまま居候をさせていた。
「また樹を見ているの。」 彼の声が男の背に掛かった。容姿に似て男だか女だか判別のし難い声だ。男はそちらを見ずに応える。 「手前のようなのが空から降ってきやがった所為でな」 彼はむっとしながらも男の傍へと寄った。 「もう。ぼくが責任を持って枯らせないようにするって言ったじゃんか。」 男はどうだかなと笑った。彼はさらに唇を尖がらせて男を睨んだ。 その日の昼過ぎからまた嵐のような雨風が訪れた。彼は男の傍にいつまでも付いていた。 「猫か、手前は」 「天使だって言ってるじゃん」 「天使ならそれらしくすりゃいいじゃねえか」 彼は男の言葉にきょとんとした。それから黙り込んでしまった。はぐれないように親に縋る子のようだった手が音を立てずに落ちた。
次の日、彼は起きてこなかった。昨日の天気が嘘のように晴れて暖かいはずなのに寒気がするほど静かだった。庭にほど近く彼の自室にと充てていた部屋へ声をかけてもあの声は返ってこなかった。代わりに薄らと血のような匂いがした。 部屋の中はというと、彼にくれてやった服のひとつが散らかされていて、それがたっぷりと赤を吸っていた。それなのに彼の姿どころか体の一部髪の一本も落ちてはいない。また面倒なことになったと男は顔を顰めた。吸った色の変わり始めたそれをぐいと持ち上げたが、瞬きの間にそれがすべて花弁になってしまった。
「これがぼくの選んだ答えです。」部屋に遺された書置きはそれで終わっていた。子どもが必死に書いたような拙さの残る字だった。男は庭と書置きを代わる代わる眺めては、表現し難い感情で胃が満たされる心地を味わうことになった。庭には、嵐など受けなかったように桜の樹が悠々と両腕を広げて笑っていた。男が枝に手当をした箇所すら見当たらなかった。陽の光を浴びたその姿を見て、男は零した。 「ああ手前、本当に天使だったんだなあ。俺が言ったことをそっくりそのまんま受け止めるような、子どもだったんだな」 天使は男の言葉に笑みを深くした。やわらかな風が、その羽をいくつか、男の膝元へと運んで行った。